〈不動産投資家実践ストーリー Vol.27
有限会社秋田商事 代表取締役 秋田紘志〉
今回の「不動産投資家実践ストーリー」は、愛知県内を中心にアパート・戸建て貸家・倉庫など28棟、戸建て旅館「SAMURAI HOUSE」2棟(2019年10月現在3棟目棟建築中を)を運営している、有限会社秋田商事 代表取締役秋田紘志さんです。
秋田さんは愛知県庁に勤める公務員でした。ある時期お父さんが経営する会社が経営不振に陥ります。およそ3億円の融資を受け建てた賃貸アパート経営は不振。他事業の借り入れと合わせておよそ4億円の借金を抱える中、名古屋空港移転で駐車場ビジネスの売上が0になるという危機的状況に陥りました。そこで公務員を続けながらお父さんとともに家業を再生。その後愛知県庁を退職し本格的に不動産経営に参入し、およそ十数年で年商2億円にまで事業を拡大しました。秋田さんは不動産業の経験0からどのように道を切り拓いてきたのか。その極意を聞きました。
1.賃貸経営のきっかけは4億円の連帯保証
編集部:秋田さん、今日はよろしくおねがいします。早速ですが、現在の所有物件数をおしえていただけますか?
秋田さん:愛知県内に、アパート・戸建て・倉庫を含め全部で24棟所有しています。今建築予定のものを合わせると28棟あります。そのうち戸建型旅館を2棟所有しています。
編集部:賃貸経営に参入したきっかけをおしえていただけますか?
秋田さん:私の場合はちょっと特殊で、公務員のときに父親が所有していたアパートを管理することから入ったのです。独立を意識したのはリーマンショックがあった2007年頃でした。
アパートは父親が所有している土地に建てた大手ハウスメーカー施工の8F建て31室の物件でした。かなり利回りが低く、今となってはちょっと考えられない投資だったと思います。私は3億円の借り入れの連帯保証人になっていましたのでどうにか手を打たなければと思っていました。その他事業用の借入などを合わせると4億近い借入がありました。
編集部:お父様が賃貸経営をしていたのですね。他にもなにかビジネスをしていたのですか?
秋田さん:自動車の修理業や保険の代理店、農業など、駐車場ビジネスなど手広くやっていました。特に利益が大きかったのが、セントレアに移転する前の県営名古屋空港の近くでの駐車場運営でした。そこは電車でアクセスできなかったので、ほとんどの人が車を利用していました。車でやってくる人を駐車場に案内して車で空港まで送り、帰ってきたら空港まで迎えに行くというビジネスです。
一泊1,000円から1,500円でしたが、海外旅行だと1週間くらい利用する人もいます。このビジネスがおそらく月間100万円くらいの利益になっていたと思います。これを家族総出でやっていました。
その収益でアパートを建てることができたり、僕が大学の東京に行かせてもらったり海外留学をさせてもらったりしました。
ところが空港がセントレアに移転して駐車場の収益およそ100万円のキャッシュフローがなくなりました。アパートの売上だけでは赤字になってしまいますので、別の収入を確保しなければならなくなりました。
人間は一旦贅沢をしてしまうとなかなか元に戻ることはできないので、その売上に依存してしまうのは大変怖いことだと思いました。また、今の売上が未来永劫続くわけではなく、ある日突然行政の都合などでルールが変わることもあるということを知りました。現状に満足せず、次の手を常に見据えた行動をとらないといけない、という意識は今に活きています。
さあどうしたものか、ということで、まずはアパート経営を再生するため私が宅建の資格を取って父の代わりに経営してくことにしたのです。なぜ宅建をとったかというと、まずは家族の信頼を得るためです。
どうしても不動産は金額が大きくなりがちです。そして、先祖代々の土地
を守るということだけでなく、売買という攻める局面がでてくるなと思いました。
この売買の感覚にリスクや抵抗感を感じる人が多いと思います。
その心理的なバリアを切り崩すための一つの手段としての国家資格である宅建でした。
まずは自主管理をして、家族の信頼をえながら、節約して資金を貯めて、きちんと説明しながらアパートや倉庫を買って行きました。
2,家業を僕に任せてくれないか?
編集部:どのように再生したのですか?
秋田さん:まずは経費を削減しました。大手管理会社のサブリース契約を解除して自主管理に切り替えて、およそ月30~40万円ほど経費を節約できました。細かい借り入れもいくつかありましたが、私の給料で補填、整理しながら、銀行にリスケをお願いしながら、不動産投資や不動産経営の勉強をして徐々に立て直していきました。
編集部:賃貸経営についてどんな勉強をしましたか?
賃貸経営の書籍を読みました。当時は賃貸経営や不動産投投資関連のコンテンツが少なかったのですが、浦田健さんの「金持ち大家さん」の本などでまずは賃貸経営の基礎を学びました。
ただ、2007年頃はリーマンショックの後で、経験不足もたたり、空室が埋まらず、やっぱり素人が手を出すもんじゃないなと暗い気持ちでいたこともあります。それを乗り切ってやれるという自信がつきました。
編集部:公務員という立場を捨てて賃貸経営に参入する決断をするまでにはかなり葛藤があったと思いますが、何が決め手になったのでしょうか?
秋田さん:はい。 約4億円の借金があり、何かあったときに私のサラリーマンの収入でそれを返済するのはちょっと無理がありました。
ですから小手先のことではダメで、賃貸事業の売り上げを大きく伸ばしていくのか、あるいはアパートを手放してしまうのかということは考えました。結局賃貸事業の売り上げを伸ばしていく方向に舵を切りました。
理由のひとつは、賃貸事業に可能性を感じていたことです。もう一つは、私が事業計画を立てることが得意だったことです。
このまま何も手を打たなければ、私は公務員生活を全うできるかもしれませんが、家としては資産を売却して整理していかなければなりません。せっかく持っている資産ですから、それを活用してビジネスを拡大していったほうがいいと考えていましたので、他に選択肢はありませんでした。
ですから、父親に「このままやっていても埒が明かないので、今後の事業拡大を含め家業を僕に任せてくれないか」と話をしました。
3.地形が悪い土地をテナント用地として再生
編集部:そしてお父様はなんとおっしゃったのですか?
秋田さん:結局やらせてくれました。とはいえ私はまだ公務員だったので全て父親の名義、会社を利用して進めました。あくまでルールに則った範囲で就業後や休日に事業計画を立ててそれを忠実に実行してきました。
編集部:具体的にどういうことを実行しましたか?
秋田さん:まずはアパートの管理を自主管理に切り替えること以外に、古い戸建貸家の再生もやりました。
アパート以外に200坪くらいの土地を所有していて、そこに収益をほとんど生んでいない古い戸建貸家がいくつかありました。
リフォームや貸家を解体してアパートを建てることも検討したのですが、当時はリーマンショックの後で、空室で苦しんでいたので、大きなアパートを建てる気にはなりませんでした。
そこで、テナントとして貸せないかを考えました。しかし地形が悪く、そのままではテナントとして貸すことは難しいことがわかりました。
ただ、調べてみると、周辺の土地を一部売ってもらい整形地にすればテナントとして貸せる可能性が高くなることがわかりました。周辺の土地の持ち主に交渉したところ売ってもらうことができ、最終的に300坪の整形地になりました。そして、テナントを誘致する活動をしました。
編集部:どういった業種にアプローチしましたか?
秋田さん:コンビニや飲食店チェーンを中心に電話営業をしました。しかしかなり難航しました。
例えば、コンビニだと土地面積が500坪くらい必要とか、角地じゃないと出店できないとか、飲食店チェーンは、800坪くらい必要とか、すでに付近に店舗があるなどの理由でなかなかテナントが決まらず倒産寸前まで追い込まれました。
4.ブレイクスルーの視点
編集部:地形が悪いので周辺の土地を買って整形地にするというアイディアは、役所にお勤めだったから得られたのですか?
秋田さん:そういうことではなく、ひとつはせっかくある土地なので最大限生かせないかなという発想だけでした。ロードサイドの物件で変形地だったので何をするにもあまりよくないということはわかっていました。
整形地にできれば価値も価格も上がります。もし借り手がつかなかった場合も建売業者さんに売れば儲かるのではないかと思いました。なにしろ借金が4億円ありますから、小さくやっても難しいので大きな売上げを作りたいということがありました。
でも建売業者に売るという発想はよくありませんでした。幹線道路沿いは音がうるさいので建売業者は買わないということを後で知りました。
そのとき、知識不足は怖いなと思いました。この件だけでなく、アパートもリーマンショックのときはだいぶ空きを出してしまいました。整形地にしてテナントを誘致することも、購入した倉庫も危うく倒産しかけています。そういうリスクが有ることはわかっていたのですが、勉強不足は怖いです。
編集部:テナント用地は最終的にどうなったのですか?
秋田さん:ある葬儀社さんにテナントとして使ってもらえることになりました。
編集部:葬儀社さんにニーズがあることに気づいて営業をしたのですか?
秋田さん:そういうことではいのですが、なんとなく街を見ていると、ダイワハウスさんがあちこちでテナントを建てているのが目についたのです。それでもしかするとダイワハウスさんはテナントに強いのではないかと思って電話をかけて客付けの相談をしました。そして地元が近い本社の葬儀社さんを紹介してもらったという経緯です。その葬儀社さんは、翌年に上場を控えていて、売上を上げるためにどうしても拠点がほしいエリアだったということでとんとん拍子に話がまとまりました。
四六時中テナント付けのことを考えてアンテナを立てておいたことでダイワハウスさんがテナントに強いのではないかということに気づいたのかもしれません。
どれだけ一生懸命やってもうまくいかないときはうまくいかない。3つ目はタイミングですね。どこかで噛み合うととんとん拍子に話が進む。そのタイミングを待つことです。
編集部:建物はどうされたのですか?
秋田さん:当初は店舗側が建てるという話だったのですが、土地貸しだけでは売上が小さくなってしまうのでリスクをとって、建物はうちで建てさせてもらいました。その代わり、かなりの利回りをたたき出すことに成功しました。これが独立に向けてのターニングポイントになりました。……続きを読む